名古屋・京都・京都での障害児通所支援事業 児童発達支援・放課後等デイサービス、イベント企画・運営 NPO法人ラマモンソレイユ/ラマモンソレイユの背景

ラマモンソレイユの背景

 2001年4月、ラマモンソレイユ誕生。あの時から、もう、6年。
何故、その時期にラマモンソレイユを立ち上げようと思えたのか、
何故、こどもたちの為という気持ちになったのか、
そして、何故、福祉事業も、なのか。
よく、会う人ごとにこれらの「なぜ?」を問いかけられる。
そして、「そういう関係のお仕事をされていたのですか!?」と、聞かれる・・・。

 でも「OL時代も結婚してからも、そんな仕事は一切したことはないんです。」そう答えるとたいていの方が、余計驚く。

 でも私の中では、いたってシンプル。
“自分の中にずっと抱えていた想いを形にしたい。”  ほんと、それだけ。経験とか、知識とかなんて、何一つなかった。
6年前のあの時期は、無鉄砲な発車をしてしまったかもしれない。
でも、想いだけはきっと、ど根性カエル(?)のように分厚く強かったかもしれない。
そして、それは今現在の私が自分の中から取り出せない程の強さ、だったのかもしれない。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 『何故、6年前の春、ラマモンソレイユをスタートさせようと思ったか』
理由はみっつある。

 まずひとつめ。 元来、小さな命(こども)に対してとか、福祉に関係する事柄には、何故か思いがあった。
そんな私が余計、医療・福祉に関して、心を砕くようになったのは、自分の母が人生の途中で脳腫瘍という病によって、突然障害者になってしまった時から。 私が、18歳の時だった。
そして母は、再発した腫瘍を摘出する手術により、完全に車椅子生活となってしまった。
そして数年後、今度は車椅子から自宅の手すりにつかまる時に転倒して、頚椎を損傷。
その瞬間から、二度と自分の足で立つこともできない、起き上がることもできない、全身麻痺のヒトとなってしまった。
私は母が亡くなるまでの3年間、「家族」として初めて医療・福祉の現実を目の当たりにした。
今のように、介護事業なんて質良く充実していなくて、家族の負担はとても大きくて、転々とさせられる病院先で、スタッフの患者への対応にも憤りを常に感じることばかり・・・。
それは、どこにもぶつけようがない位、悲しい現実だった。このときが初めて、福祉の中で「いつか何かしたい・・・」、そう決めた時だったのだと思う。

 そして、ふたつめ。
それは“ブラウン管の向こうから、あってはならない事が流れる度心が痛くて痛くてたまらなかったから。”
幼児虐待のニュースがブラウン管から流れてくるたび、胸の奥まで全部こなごなになるほどの衝撃をうけた。
何故?何故?何故?。
当時、私は既に、ふたりのこどもを育てている母。
尚のこと、その?マークは、ずっとずっと私の中に留まって消すことができなかった。
「何か私でもできることはないのだろうか・・・」
「でも何ができるのだろう・・・」
テレビの前で立ちすくむたび、自分に問いかけた。
だけど、いきつくところは、「今は無理、いつかそのうち・・・」。
二人のこどもの子育てもある、且つ、当時は全身麻痺になってしまった母の介護も抱えていた。目標を定めるまでもなく、「いつか、いつか・・・」、そう思ってた。

 そしてみっつめ。
母が亡くなり、三人目のこどもを妊娠した時、幸か不幸か、人生の転機が訪れた。
「いつかそのうち・・・」は、もしかしたらもう一秒後には叶わなくなる夢なのだと身をもって知った。
それは、想像もしていなかった出来事だった。
でも、それが何物にも勝る、一番のきっかけとなった。


 私は2000年の12月。お腹の中にいた次女とふたりで生死を彷徨ってしまった。
生死を彷徨ったというよりも、一度止まってしまった。母体(私)の心不全で。

 でも、「この子だけは助けてもらわなきゃ・・・」、その潜在意識だけが、私を意地でも最後まで眠らせなかった。
「私より赤ちゃんを・・・」そうつぶやくのが精一杯だった私に Drは「わかっています」と応えた。
オペ室に運び込まれ、麻酔をかけられる瞬間この子が無事助かるならば、もう死んでもいいと思った。
もう楽になりたい、そう思った。
幾ら、我慢強い私でも、その位苦しくてたまらなかった。
でも、まだ見ぬわが子に会いたいという気持と、楽になりたい気持のどちらが強かったかと言えばそのどちらでもなく、「せめて生まれてくる子の無事を知るまで・・・」という心境だった。
もし、お腹にこどもがいなかったらあの苦しみに心身まけてしまっていただろう、と思う。

 人工呼吸器が装入されている喉の激痛。体中にささっている管の重み。
先ずそれを感じた後に、意識も、思考もすこしずつ現時の中に引き戻された。
生きてる・・・?。でも、機械で生かされてる・・・?。この管を抜いたら私は・・・。
ICUでのあの瞬間は未だに忘れられない。
いえ、一生わすれない。

 「もしこのまま終ってしまうとしたら、私は自分の人生に、何を遺せたんだろう」
「三人目のこどもは、抱っこさえしてあげれない。家族は彼女に母親はどんな人だったと、語っていくんだろう」
「今まで二人のこどもたちに、私は何を教えてあげれたんだろう」
「私は何を目指して生まれてきたんだろう」
「それでもいい、三人のこどもたちを産んだ、それだけは私が生きていた証」・・・・・。
オペ室にはいってからも、ICUで意識がもどってからも、私は自分をなだめた。考えあぐねた。そして自分の人生を、とことん後悔した。
人生に対してというよりも、幾らでも行動をおこせば可能だったことを「いつかいつか・・・」、そう先送りしてきた自分がどうしても許せなかった。

 奇跡がおきて、ひとつひとつ慎重に身体から管が一本ずつ抜かれていった。
ICUからCCU、そして一般病棟へ。
その時、病室の四角い窓にひろがる小さな空を、ただただ眺めながら、私は誓った。 もし、もう一度普通の生活に戻れるなら、たとえそれが数年でもいい、もう一度命を与えてもらえるなら、私はもう二度と、自分の人生を曖昧に過ごしたりしない。
「いつか」ではなく、何よりも毎日の「今」という時間を大切に生きたい、私にしかできないことがまだ残っているならば、どうかもう一度、この人生の中で悔いのない日々をやり直させて欲しい、 そう、強く強く願った。

名古屋・大阪・京都での障害福祉サービス、児童デイサービス、イベント企画・運営 NPO法人ラマモンソレイユ/小さな命

 名古屋では大きな総合病院の中でも、私のような患者は初めてだったらしい。
背負っている病状のリスクからして、先ずお腹の子の命は諦めるとして母体もどうなんだ・・・という状況だったらしい。
諦められていた?お腹の子(次女)は仮死状態でとりだされ、あれこれ保育器の中で病と闘っていたらしい。
「らしい」という言葉が続くのは、後々になって大変な事態だった事を知らされたから。

 心不全の苦しみなんてその時が初めてだったし(そりゃ滅多にみんな経験しないだろう・・・)、なんでこんなことになってるのか自分でもよくわかってなかった。
意識が戻ってからは、とりあえずお腹の子をとりだしてもらったら一週間程で退院できるのだと余裕で思ってた。

 CCUにいる時も、私は一般病棟の個室に移されたのだと思いこんでいた。
知らないことをいいことに能天気なことばかり主人にお願いしてた。
「変なガラス張りの部屋だし、部屋中太い電気コードだらけだし、ベットが部屋のど真ん中にあるから位置かえたいし、夜中ずっとポンプの操作に看護婦さんくるし、見えないけど頭の上モニターが並んでるから落ちてきそうで怖いし、外の景色みれないし、この部屋変えてもらうように頼んで・・・」と、何も疑わず訴えてた。
「今は、これでいんだって」。
それしか言わない主人の言葉の意味が全くわかってなかった・・・。
寝たきり状態で、身体を起こすことさえできなかった私なのに、だ。今だからそんな自分に笑える。
しかも首から管が繋がってるのも、何故なのかしらなかった(楽天家すぎ!)。

 その後、大部屋に移され二週間程たって、やっと自分の足で歩けるようになり「病棟の廊下のみ歩いてよし!」の許可がでた時のこと。 ナーススーションの前で、個室にいた時の看護婦さんが、私をみつけて慌てて駆け寄ってきた。
「うわーっ、よかった、ほんとによかった! 島津さんふつーのひとになってる、歩いてる!!すごーい!!」
「へっ?」、、、、である。はい、歩いてます。

 そして、病棟内の『CCU』の入り口を見つけた時、私は主人に一言。
「なんかここ緊迫してない?大変な患者さんがいるところみたいだねぇ〜、面会にくるご家族も辛いだろうねぇ・・・」
「は・・・・。ついこの間まで、お前ここにいたじゃん・・・。知らなかったの?」
「え゛っ!?」である。 はい、知らなかったです。

 心不全を起こしてから一ヶ月後、なんとか回復した私は無理やり退院させてもらった。
条件付だけど。この無理やり、というのがいかにも私らしいな・・・。

 そして退院の日から3ケ月に満たない春に、“そんなことやらなくていい・・・”という主人と義母たちの声を撥ね退けて、私は、ラマモンソレイユの原点となる形をスタートさせた。
実は、もうベットの上でずっと先ず何からやっていくかを毎日、思案していたからあとは行動のみ、の状態だった。
でも、要の体調は、といえば実は、まだまだ回復どころではなかった。
 家事でいえば掃除機をかけることも、洗濯物も干すのがやっと、という状態だった。
腕を胸から上にあげると、心臓が苦しくなる・・・
少しでも重量のあるものを持つと、息がとまりそうになる・・・
私の回復をまって、やっと退院してきた次女を抱っこすることさえ、本来Drから禁止されていた。
それは、心臓の負担になるからという理由で。

 それまで心臓が悪いなんて思いもしなかったけど、心不全で死にそうになってしまった後の診断は拡張型心筋症。
しかも、これは大変な病気なのだということを、数年後始めて知った(←これまた能天気すぎ!)。
退院後の検査でも、「この心臓で普通に生活している貴方が信じられない・・・」といわれた。

 それでも、病室で自分自身に、というよりも自分の人生に誓った気持と、また、明日私は病院に逆戻りしてしまうのかもしれない、だったら今の時点の自分ができるコト、そしてやりたいと思うコト、それを今この生活の中で、できるところまでやっておきたい!
またいつ、止まってしまうかもしれない命ならば、尚のコト。そんな切実な思いは、私をかりたてた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ラマモンソレイユ。
それは、私一人の想いから、そんなこんなの背景があったからこそ生まれたけど、今では、私一人の想いではなく、スタッフひとりひとりの想いがぎっちり詰まってる。
私ひとりだけのものではなくて、みんなのもの。

 シアワセってこういうことを言うんだと思う。
ひとつのドットが、誰かのドットと繫がって一つの線になる。
一つの線が、また別のドットと繫がって、そして、直線ではなく“形”となっていく。
だけど、ひとつひとつのドットの存在は絶対不可欠。

 もし、あの時あのまま、死んでいたら、私は人生の中にこんな感動や、シアワセがあることを知らずにいた、と日々痛感している。
もちろん、その分、常に苦悩することは多々あるけど、あの苦しみに比べたらとるにたらない。
そんな気持で、乗り越えようと努力することができる。
そして今度、ほんとのほんとに眠る時がやってきてしまったら、尚そう思うんだろう。

 おまけの人生、なかなか捨てたものじゃない。
というか、既にぎっちり、詰まってる。

                                    代 表 理 事  島 津 早 苗